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. 2021 Dec 14;10:1276. [Article in Japanese] [Version 1] doi: 10.12688/f1000research.55582.1

「ばかり」の「限定」と遊離数量詞

“Exclusivity” and quantifier float in  bakari

“Exclusivity” and quantifier float in&nbsp;<i>bakari</i>

大塚貴史 大塚 1,a, 白川稜 白川 2,b, 橋本修 橋本 1,c, 沼田善子 沼田 1,d
PMCID: PMC9277704  PMID: 35903218

Abstract

本稿は,とりたて詞「ばかり」の意味を再考する記述的研究である。従来とりたて詞「ばかり」は限定を表す一方で非該当例を許容する特徴を持つことが指摘されてきた。このため「ばかり」の意味を限定ではないと示唆・主張する研究も見られる。これに対し,本稿では,「ばかり」が遊離数量詞と共起する場合に非該当例を許容しない現象の分析から,「ばかり」の意味を「限定」とすべきであると主張する。本稿では,先行研究を踏まえ,以下のことを明らかにする。「ばかり」の意味解釈のために話者が認知的経験記憶により設定する主観的な集合は,必ずしも現実世界と一致しない場合があるが,遊離数量詞の特徴により,これと「ばかり」が共起する場合は,当該の集合を形成する事態の数量が,現実世界の事態の数量と常に一致する解釈となる。この際,「ばかり」は非該当例を許容しない。従来指摘された非該当例が許容される解釈は,話者が設定する集合が現実世界より狭い範囲で設定され,当該集合の外部に非該当例が存在する場合の解釈と考えるべきである。このことから「ばかり」の意味は非該当例を許容しない「限定」と考えるのが妥当である。

Keywords: とりたて詞, ばかり, 遊離数量詞, 限定, Toritate focus particle, bakari, exclusivity, floating quantifiers

1. はじめに

とりたて詞「ばかり」は,「だけ」「しか」と同様に限定を表すとされるが,一見するとその位置づけに検討の余地があることを示すような特徴を持つ。それは,非該当例 1 を許容するという特徴である。例えば,次の文において,白いシャツ以外(例えば赤いシャツ)も購入している,あるいは三毛猫以外(例えば黒猫)も集まっている場合,「だけ」や「しか」を含む (1ab) (2ab) は成立しないのに対し,「ばかり」を含む (1c) (2c) は成立する。

  • (1)
    【白いシャツを 900 枚,赤いシャツを 100 枚購入した場合】
    • a.
      # 白いシャツ だけを購入した。 2
    • b.
      # 白いシャツ しか購入しなかった。
    • c.
      白いシャツ ばかりを購入した。
  • (2)
    【三毛猫が 40 匹,黒猫が 10 匹集まった場合】
    • a.
      # 三毛猫 だけが集まった。
    • b.
      # 三毛猫 しか集まらなかった。
    • c.
      三毛猫 ばかりが集まった。

これは,「だけ」「しか」は非該当例を許容しないのに対し,「ばかり」は非該当例を許容するということを示している。「ばかり」がこうした特徴を持つことは既に指摘されており,それを踏まえて「ばかり」は限定を表すものではないと指摘する研究もある。

しかし,「ばかり」は環境を問わず非該当例を許容するわけではない。例えば,(1c) (2c) に遊離数量詞 3 を加えた次の文は,(1) (2) と同様の場合には成立しない。

  • (3)

    【白いシャツを 900 枚,赤いシャツを 100 枚購入した場合】

  • # 白いシャツ ばかり1000 枚購入した。

  • (4)

    【三毛猫が 40 匹,黒猫が 10 匹集まった場合】

  • # 三毛猫 ばかり50 匹 集まった。

(3) (4) は作例であるが、コーパスにおいても「ばかり」に数量詞が後続した文が存在し、これらについての母語話者の内省判断において (3) (4) と同様に非該当例が許容されないことを確認している 4 。このことは,「ばかり」は遊離数量詞と共起する場合には非該当例を許容しないということを示している 5 。本稿は,現代語を対象とした記述言語学的研究の一環で,コーパスのデータと母語話者の内省に基づき,この現象について,先行研究の指摘から導き出される遊離数量詞の特徴と関連づけて考察し,その要因を明らかにするものである。さらに,これが「ばかり」の意味について示唆的な現象であることを指摘し,その意味について考察する。分析にあたっては,注 4 ほかで触れたとおり,「現代日本語書き言葉均衡コーパス」(BCCWJ) において本稿で扱う遊離数量詞と共起する「ばかり」に該当する用例,および作例の意味解釈について,日本語母語話者である筆者らの言語直観で判断する。本稿の主張は次の通りである。

  • (5) a.

    遊離数量詞は,事態の数量を表す(数量を事態の数量として表し直す)。

  • b.

    「ばかり」は,遊離数量詞が共起することで,話者による主観的な集合を形成する事態の数量が,現実世界の事態の数量と一致する解釈となるため,結果的に非該当例が存在する可能性を排除する。

  • (6)

    とりたて詞「ばかり」の意味は限定であり,非該当例は「ばかり」が問題にする集合 6 の外部においてのみその存在が許容され得る。

2. 先行研究の指摘と本稿の主眼

「ばかり」が非該当例を許容することは,従来様々な研究において指摘されてきた( 菊地 1983西村 1994定延 2001澤田 2007日本語記述文法研究会編 2009佐藤 2017 など)。以下では,その要因についても言及している 定延 (2001) 佐藤 (2017) を取り上げ,それぞれの指摘を概観した上で本稿の主眼とするところを明確にする。

2.1 定延 (2001) の指摘

まず, 定延 (2001) の指摘を概観する。 定延 (2001) は,「探索」という概念を用いて「ばかり」について考察している。「探索」とは「認知領域の拡大行動」( 定延 2001: 118)であるが, 定延 (2001) は,「ばかり」にはその「探索」が「二重に関わってくる」( 定延 2001: 135) と指摘している。例えば,「ばかり」を含む次の (7) の文の場合,初めに (8a) のような,次に (8b) のような「探索」が行われるとされる。

  • (7)

    この人物が食べたのはミカン ばかりだ ( 定延 2001: 129,下線は筆者)

  • (8) a.

    【探索①】問題の人物が食べたモノを探索領域とし,[品種は何か]を探索課題とする探索 7 定延 2001: 129,【 】内は筆者)

  • b.

    【探索②】 探索の集合を探索領域としてそれらが どういう探索なのか,〔筆者略〕1 探索ずつスキャニング探索 ( 定延 2001: 129,下線と【 】内は筆者)

その上で,(7) の文はこの「二重」の「探索」のうち,(8b) の「探索」によって次のような結果が得られたことを表現しているとされる。

  • (9)

    【探索②の結果】すべて[ミカン]という情報を得た 探索だ ( 定延 2001: 129,下線と【 】内は筆者)

定延 (2001) の議論において重要となるのは,「ばかり」を含む文が (8b) の「探索」の結果を表現するという点である。(8a)と (8b) の「探索」は,前者が「世界のありさま」を「探索領域」とするのに対し,後者は「世界探索の集合のありさま」を「探索領域」とするという点で異なるが( 定延 2001: 134), 定延 (2001) によれば,後者の場合は非該当例の有無は大きな問題にならないとされる。 定延 (2001)は,次の (10) の例を基に (11) のように述べている。

  • (10)

    先週はうどん ばかり食べた ( 定延 2001: 134,下線は筆者)

  • (11)

    「先週食べたものはうどんがすべてなのか,それともうどんは大部分にすぎず他に何か食べたのか」という問題は,世界のありさまを表現する場合は大きな問題で,仮にうどんが大部分にすぎないにもかかわらず「うどんがすべて」と表現すれば誤りになる。しかし, 世界探索の集合がどのような集合であるかを表現する際には,世界じたいについては,多少印象的・感覚的になっても問題ではなく,「うどんをやたら多く見出す世界探索の集合」であることに変わりはないとしてしまえる 原注20。 ( 定延 2001: 134,下線は筆者)

2.2 佐藤 (2017) の指摘

これに対し, 佐藤 (2017) は「探索の領域が〔筆者略〕探索という行動の集合である場合に,多少は印象的・感覚的であってもよいという説明に,妥当性はあるのだろうか」( 佐藤 2017: 7)と疑問を呈し,「ばかり」が非該当例を許容する要因について, 定延 (2001) とは異なる議論を展開している。

佐藤 (2017) は,「認識的際立ち性」という観点から「ばかり」の振る舞いを説明している。 佐藤 (2017) によれば,「認識的際立ち性」とは次のようなものである。

  • (12)

    ここ〔筆者注: 佐藤 (2017)〕で言う「認識的際立ち性」とは,当該の主体にとって何らかの意味において容易に捉えられるもの,捉えずにはいられない際立ちをもつものである。 ( 佐藤 2017: 9)

佐藤 (2017) は,集合を問題にする言語形式には,予め確立されている客観的な集合だけでなく,話者の経験に根差して形成された主観的な集合に関与するものがあると述べ( 佐藤 2017: 8),その一例として「ばかり」を挙げている。また,後者の集合が形成されるに当たっては様々な動機があり得るとしており( 佐藤 2017: 4-5),特に「ばかり」が関与する集合が形成される動機となるのが「認識的際立ち性」であると指摘している( 佐藤 2017: 9)。

佐藤 (2017) によれば,「ばかり」が用いられるに当たっては,「認識的際立ち性という動機づけに支えられ,その特徴を有する事態のみを成員とする経験記憶の集合が形成される」( 佐藤 2017: 9)とされる。例えば, 佐藤 (2017) は次の (13) の文が発話されるに至る過程を (14) のようにまとめている。

  • (13)

    あなた,学校に遅刻して ばかりでどうするの ( 佐藤 2017: 3,傍点を下線に改変)

  • (14)
    「ばかり」の集合形成の事例②
    • a.
      母親が娘の登校時間を気にしながら日常生活を送る。
    • b.
      週 2 回のペースで娘の学校への遅刻という認識的際立ち性を有する事態を知覚する。
    • c.
      「娘の遅刻」という認識的際立ち性を有する事態のみから成る経験記憶の集合が形成され,「遅刻してばかり」という認識にいたる。佐藤 2017: 10,下線は筆者)

仮に,週 6 日制の学校に「週 2 回のペース」で遅刻した場合,週 4 回は遅刻していないことになり,(13) の文においてはそれが非該当例となる。しかし,「認識的際立ち性」という特徴を持つもので構成される主観的な集合には「遅刻」のみが含まれる,言い換えれば「非遅刻」は含まれないため 8 ,(13) の文が問題なく成立するとされるのである。

2.3 本稿の主眼

以上, 定延 (2001)佐藤 (2017) の議論を概観した。いずれにおいても「ばかり」が非該当例を許容する要因について興味深い指摘が見られるが, 佐藤 (2017) も述べているように, 定延 (2001) の指摘には検討の余地がある。これを踏まえ,本稿では「ばかり」が非該当例を許容する要因について, 佐藤 (2017) の考えを採る 9

一方で,「ばかり」と非該当例の関係については,従来考察の対象とされていない問題がある。それは,「ばかり」が非該当例を許容しない環境があるということである。例えば,次の文はいずれも「ばかり」を含むため,先行研究に倣えば非該当例(「赤いシャツ」「黒猫」)が存在していても成立することが予測されるが,(15b) (16b) については成立しない。

  • (15)
    【白いシャツを 900 枚,赤いシャツを 100 枚購入した場合】
    • a.
      白いシャツ ばかりを購入した。 (=(1a))
    • b.
      # 白いシャツ ばかり1000 枚購入した。 (=(3))
  • (16)
    【三毛猫が 40 匹,黒猫が 10 匹集まった場合】
    • a.
      三毛猫 ばかりが集まった。 (=(2a))
    • b.
      # 三毛猫 ばかり50 匹集まった。 (=(4))

(15a) (16a) と (15b) (16b) の相違点は,後者には数量詞が生起しているという点である。これは,一見すると「ばかり」が数量詞と共起する場合は非該当例が許容されないということを示しているように見える。ただし,「ばかり」と数量詞が共起していても,非該当例が許容される場合もある。例えば,次の文ではいずれも「ばかり」と数量詞が共起しているが,非該当例(「男性」)が存在する場合,(17a) は成立しないのに対し,(17b) は成立する。

  • (17)
    【女性を 400 人,男性を 100 人招待した場合】
    • a.
      # 女性 ばかり 500人招待した。
    • b.
      招待した 500 人は女性 ばかりだ。

つまり,「ばかり」と数量詞が共起していても,(15b) (16b) (17a) は非該当例を許容しないのに対し,(17b)はそれを許容するということになるが,これらは数量詞のタイプが異なる。先行研究では,(15b) (16b)(17a) の数量詞は,(17b) の数量詞に対して遊離数量詞と呼ばれて区別されている。この点を踏まえると,(15) (16) (17) は次のことを示していると言える。

  • (18)

    「ばかり」は非該当例を許容し得るが,遊離数量詞と共起する場合はそれを許容しない。

前述の通り,先行研究では「ばかり」が非該当例を許容することやその要因については指摘されてきたが,「ばかり」がそれを許容しない環境があることについて指摘・考察した研究は管見の限り存在しない。従って,本稿ではこの (18) の現象の解明を主眼とし,その要因を明らかにする(3節)。さらに,この現象を踏まえて「ばかり」の意味についても考察する(4節)。

3. 「ばかり」と遊離数量詞

まず,(18) の現象の要因について考察する。以下では,この現象を説明するに当たって重要となる「ばかり」の特徴,及び遊離数量詞の特徴について確認し (3.1 節,3.2 節),それらを踏まえてこの現象の要因を明らかにする(3.3 節)。

3.1 事態(の数)から見る非該当例の許容

まず, 佐藤 (2017) の議論の中で特に (18) の現象と密接に関わると考えられる指摘を確認する。前述の通り, 佐藤 (2017) は「ばかり」と「認識的際立ち性」の関わりを指摘しているが(2.2 節),特に「ばかり」が問題にする集合について次のように述べている。

  • (19)

    認識的際立ち性という動機づけに支えられ,その特徴を有する 事態のみを成員とする経験記憶の集合が形成される。 ( 佐藤 2017: 9,下線は筆者)

また, 佐藤 (2017) は「認識的際立ち性」が生じる要因の 1 つとして次の (20a) を挙げ,これについて (20b) のように述べている。

  • (20) a.

    知覚経験される事態の数が 多い。最低でも複数である。 ( 佐藤 2017: 11,下線は筆者)

  • b.

    一度の失敗しか経験されていない場合,「失敗ばかり」とは言えないだろう。したがって,この要因は 「ばかり」が使われるための必要条件である 原注6。 ( 佐藤 2017: 11,下線は筆者)

このように, 佐藤 (2017) は「ばかり」が問題にする集合に含まれるのは「事態」であり,その数が「多い」ことが「ばかり」が用いられる要件であると指摘している。このことは次のようにまとめられる。

  • (21) a.

    「ばかり」は 事態を問題にする。 10

  • b.

    「ばかり」は事態の数が 多いと認識されれば用いられ得る。

次に,この (21) に注目しつつ,「ばかり」が非該当例を許容する背景について改めて検討する。前述の通り,次の (22) の文は (23) の状況において問題なく成立する。

  • (22)

    白いシャツ ばかりを購入した。

  • (23)

    白いシャツを 900 枚,赤いシャツを 100 枚,計 1000 枚のシャツを購入した。

このとき,「ばかり」が事態を問題にするということ ((21a)) を踏まえると,(22) の文が成立するに当たり,(23) の状況は次のように捉え直されていると考えられる。

  • (23’)

    「白いシャツを購入する」という事態が 900,「赤いシャツを購入する」という事態が 100, 計1000 の「購入する」という事態が生じた

つまり,(22) の文が成立するということは,事態の総数は 1000 であるものの,「ばかり」はそのうちの 900 の事態 のみを問題にすることが可能ということになる。このとき,(22) では「白いシャツを購入する」という事態の数が多いということは間接的に表現され得るが 11 ,その具体的な数(総数に一致する数なのか,あるいはそれに近い数なのか)には関与していない。つまり,「ばかり」は次のような特徴を持つのであり,これが背景となって非該当例が許容されることになると言える。

  • (24)

    「ばかり」は,(事態の総数が文脈上示されている場合でも)問題にする事態の具体的な数には関与しない。

3.2 遊離数量詞と事態の数量

次に,遊離数量詞に関する先行研究の指摘を見る。 矢澤 (1985) は,本稿での遊離数量詞に当たる「NCQ型」の数量詞 12 について,「何らかの形で動詞の表す動作・作用に関連した数量を表しているのではないか」( 矢澤 1985: 104)と述べ 13 ,「NCQ型」の数量詞とそれ以外の数量詞の相違点について次のように指摘している。

  • (25)

    NCQ型の数量詞〔筆者注:本稿での遊離数量詞〕は,述部に直接関わり,その述部の表す動作・作用の上で先行名詞句と間接的な意味的関係を結ぶのに対し,NCQ型以外の型の数量詞は,先行名詞句に直接関わり,先行名詞句が述部と関わることによって,数量詞と述部との間接的な関係ができると考えるのである。 ( 矢澤 1985: 105-106,下線は筆者)

この指摘は,遊離数量詞が事態と密接に関わることを示している。具体的には,遊離数量詞は次のような特徴を持つと言える。

  • (26)

    遊離数量詞は,事態の数量を表す(数量を事態の数量として表し直す)。 (=(5a))

3.3 遊離数量詞共起下において非該当例が許容されない要因

以上の点を踏まえ,「ばかり」が遊離数量詞と共起する場合に例外を許容しなくなる現象の要因について検討する。次の例を見られたい。

  • (27)

    白いシャツ ばかり1000 枚購入した。 (=(3))

前述の通り,「ばかり」はその集合の数量には関与しないが ((24)),遊離数量詞は明示的にその事態の数を表す。(27) の文で言えば,「1000 枚」という遊離数量詞が生起することで,次のようなことが表される。

  • (28)

    問題になる「白いシャツを購入する」という事態の数は 1000 であった。

これにより,「ばかり」が問題にする「白いシャツを購入する」という事態の数が 1000 にいわば固定され,結果的にその中に他の事態(「赤いシャツを購入する」など)が存在する余地がなくなるのである。つまり,「ばかり」が遊離数量詞と共起する場合に非該当例を許容しない要因は次のようにまとめられる。

  • (29)

    「ばかり」は,遊離数量詞が共起することで,話者による主観的な集合を形成する事態の数量 14 が,現実世界の事態の数量と一致する解釈となるため,結果的に非該当例が存在する可能性を排除する。 (=(5))

4. 「ばかり」の意味について

次に,「ばかり」の意味について考察する。以下では,まず,「ばかり」が非該当例を許容する現象に触れる先行研究のうち,「ばかり」の意味にも言及するものの指摘を概観し,併せてその問題点を明らかにする (4.1 節)。その上で,「ばかり」の意味はあくまで限定と捉えるべきであると主張する (4.2 節)。

4.1 先行研究の指摘と問題の所在

とりたて詞「ばかり」の意味については既に様々な先行研究において考察されており,多くの場合,「ばかり」は限定を表すとされる( 丹羽 1992益岡・田窪 1992中西 1995沼田 2009 など)。しかし,特に「ばかり」が非該当例を許容する現象に触れる先行研究においては必ずしもそうではない。以下では,「ばかり」が非該当例を許容する現象に触れつつ「ばかり」の意味についても言及している 日本語記述文法研究会編 (2009) 澤田 (2007) を取り上げてその指摘を概観し,併せてその問題点を明らかにする。

4.1.1  日本語記述文法研究会編 (2009) の指摘とその問題点

まず, 日本語記述文法研究会編 (2009) は次のように述べ,「ばかり」は限定を表すと主張している。

  • (30)

    「ばかり」は, とりたてた要素が唯一のものであることを示し,ほかのものを排除するという 限定の意味を表す。( 日本語記述文法研究会編 2009: 61,下線は筆者)

また, 日本語記述文法研究会編 (2009) は次の (31) の文について (32) のように述べ,「ばかり」が非該当例を許容することに触れている。

「ばかり」が限定を表すことと非該当例を許容することには一見すると理論的矛盾がある。しかし, 日本語記述文法研究会編 (2009) によれば,「ばかり」が表す限定には次のような2つの下位分類があり,非該当例が許容される (31) の文では,このうち (33b) のような「限定の仕方」が採られているとされる。

  • (33) a.

    とりたてた要素が唯一のものであることを示し,ほかのものを排除するという限定の仕方 ( 日本語記述文法研究会編 2009: 62)

  • b.

    とりたてた要素が関わる事態が 何度も繰り返されることや,とりたてた要素が重なって 多数にのぼることを表すという限定の仕方 ( 日本語記述文法研究会編 2009: 62,下線は筆者)

日本語記述文法研究会編 (2009) の指摘は,非該当例の許容という現象について限定という意味の下で説明しようと試みている点で注目に値する。しかし,その説明には不十分な点がある。確かに,(31) の文は「コーヒーを出す」という事態が複数回生じていなければ成立せず,その点で (33b) において述べられているように「何度も繰り返されること」「多数にのぼること」を表していると言える。しかし,その (33b) を (30) の下位分類としていることには問題がある。具体的に言えば,「何度も繰り返されること」「多数にのぼること」((33b))と「唯一のものである」「ほかのものを排除する」((30)) ということには隔たりがある。それにもかかわらず, 日本語記述文法研究会編 (2009) ではその点について特段の言及がなされていないのである。この点に鑑みれば, 日本語記述文法研究会編 (2009) の説明は十分とは言えない 15

4.1.2  澤田 (2007) の指摘とその問題点

これに対し, 澤田 (2007) は「ばかり」の(主たる)意味は限定ではないと主張している。 澤田 (2007) は, 菊地 (1983) が挙げる次の(34)の文について (35) のように述べている。

  • (34)

    この一週間そば バカリ食べたよ。 ( 菊地 1983: 58,下線は筆者)

  • (35)

    「ばかり」を使用する第一の目的は,「毎日そばを食べた」とカテゴリーを限定するというより, 話し手が「この一週間を思い起こせば,よくそばを食べた,それは通常の一週間より多すぎた」ということを伝える方が重要であり,その 二次的な効果として明示された要素に対比される要素(明示された要素以外にその現象を成り立たせる可能性のある要素)がその観察された中に少なかった。または,なかったと伝えることになる。 派生的に,限定的解釈がでてくるのである。 ( 澤田 2007: 118-119,下線は筆者)

このように, 澤田 (2007) は,「ばかり」は「通常より多い」ということを表すのであり,限定(的解釈)はそこから「派生」する「二次的な効果」であると捉えている。つまり,限定は「ばかり」の意味ではなく,言わば語用論的効果であるとしているのである。

澤田 (2007) の指摘において注目されるのは,「ばかり」が問題にする集合と非該当例の関係である。(35) では,「ばかり」は場合によっては「明示された要素に対比される要素」が「観察された中に少なかった」ということを伝え得るとされている。これは,「ばかり」が問題にする集合に「明示された要素に対比される要素」が含まれていても構わないということを意味する。 澤田 (2007) の言う「明示された要素に対比される要素」が本稿での非該当例に当たると推察されることを踏まえると, 澤田 (2007) は次のことを示唆していると言える。

  • (36)

    「ばかり」は,問題にする集合に非該当例が含まれていても用いられ得る。 16

しかし,「ばかり」と遊離数量詞が共起した場合の現象を踏まえれば,この (36) は否定せざるを得ない。本稿では,3 節において,非該当例を許容し得る「ばかり」が遊離数量詞と共起した場合にそれを許容しなくなるという現象について考察した。その要因を検討する過程で,遊離数量詞が共起することで,話者による主観的な集合を形成する事態の数量が,現実世界の事態の数量と一致する解釈となるということを指摘したが ((29)),これは次のことを意味する。

  • (37)

    遊離数量詞の共起によって,「ばかり」が問題にする集合(に含まれる事態の数)が遊離数量詞によって示される現実世界の集合と同一の集合に固定される。

仮に, 澤田 (2007) が示唆するように,「ばかり」は問題にする集合に非該当例が含まれていても用いられ得るとすれば,遊離数量詞によって「ばかり」が問題にする集合(に含まれる事態の数)が固定された次の文も,場合によっては「1000」の「購入する」という事態の中に非該当例(「赤いシャツを購入する」)が含まれていても成立するということになるが,次の文がそうした状況下では成立しないことは前述の通りである。

  • (38)

    【白いシャツを 900 枚,赤いシャツを 100 枚購入した場合】

  • # 白いシャツ ばかり1000 枚購入した。 (=(3))

4.2 「ばかり」の意味

以上,「ばかり」が非該当例を許容する現象に触れる先行研究における「ばかり」の意味に関する指摘を確認したが,いずれにおいても問題があると言える。これに対し,本稿では「ばかり」の意味について次のように主張する。

  • (39)

    とりたて詞「ばかり」の意味は限定であり,非該当例は「ばかり」が問題にする主観的な集合の外部においてのみその存在が許容され得る。 (=(6))

まず,「ばかり」は限定,即ちとりたてた要素(事態)が唯一存在し,他のものを排除する 17 ということを表すと主張する。前述の通り,「ばかり」の意味が限定でないとすると,遊離数量詞と共起した場合に非該当例が許容されない現象を説明することができないためである。

ただし,その限定は「認識的際立ち性」などに起因して形成される主観的な集合の内部に対してのものである。従って,現実世界において客観的には非該当例が存在していても,それが(「認識的際立ち性」を持たないが故に)「ばかり」が問題にする集合に含まれなければ,「ばかり」は用いられ得るのである。

5. おわりに

本稿では,「ばかり」が遊離数量詞と共起する場合に非該当例が許容されない現象を取り上げ,その現象が,「ばかり」が問題にする集合に含まれる事態の数量が遊離数量詞によって現実世界の事態の数量と一致する解釈になることに起因することを明らかにした。また,これを通して,とりたて詞「ばかり」の意味は限定であると主張した。この主張は多くの先行研究に見られるものであるが,「ばかり」が非該当例を許容することを認めた上でそのように主張する研究はほとんど存在せず 18 ,その点で,「ばかり」は限定を表すと考えざるを得ない現象にも触れつつその主張を明示したことに意義があると考える。

ところで,本稿では, 佐藤 (2017) の指摘を踏まえ,「ばかり」が問題にするのは現実世界を反映する予め確立された客観的な集合ではなく,自己の経験に根差して形成される主観的な集合であると捉えることにより,限定という意味の下で非該当例の許容という現象が説明されると論じた。これは,「ばかり」の意味記述においては,その意味の対象となる集合(以下,対象集合)が重要となることを示しているが,この対象集合という視点の有用性は,「ばかり」の意味記述に限られるものではないと考える。まず挙げられるのは,他のとりたて詞の意味記述に当たっての有用性である。管見の限り,従来のとりたて詞研究で は,とりたて詞各語について対象集合が詳細に議論されることや,それぞれの対象集合の設定のされ方の異同を本格的に取り上げた考察はほとんど行われていない。他のとりたて詞についても対象集合に関する考察を深めることで,個別のとりたて詞の意味やとりたて詞全体の意味体系の記述の精緻化が可能となろう。また,とりたて詞に留まらず,非該当例を許容しないとされる諸形式の意味記述に当たってもこの視点が有用であると考えられる。 例えば,全称量化詞などと呼ばれる「全部」「みんな」,さらに「常に」「いつも」などは,基本的には非該当例を許容しないとされるが,「みんな」や「いつも」など一部の形式については非該当例を許容し得る。このこと自体は既に 佐藤 (2017) で指摘されており,意味的な観点からその要因を明らかにしようとする研究も存在する( 大塚 20202021)。しかし,対象集合に注目して再検討することで,先行研究において未だ解明されていない点について説明を与えることが可能になると考える。これらについては稿を改めて論じることとする。

データ可用性

本論文の研究結果の基礎となるデータは,すべて本論文中に示されており,追加のソースデータは必要とされていない。例外として,注4で示したデータ絞り込みの結果,判断を加えた42例の提示は,国立国語研究所による現代日本語書き言葉均衡コーパス(BCCWJ)「中納言」より入手できる。同コーパス利用には登録が必要だが,他の研究者も著者と同じようにデータにアクセスできる。登録方法については https://chunagon.ninjal.ac.jp/auth/login?service=https%3A%2F%2Fchunagon.ninjal.ac.jp%2Fj_spring_cas_security_check を参照されたい。

謝辞

本稿は,国際研究集会「次世代の日本研究―国際的協働研究と研究交流―」(2021年3月21日,オンライン)における口頭発表の内容に加筆・修正を施したものである。発表に際し,貴重なご意見を賜った方々に感謝申し上げる。

Funding Statement

This paper was supported by the University of Tsukuba Gateway (F1000) Article Submission Support Program from the Faculty of Humanities and Social Sciences, University of Tsukuba. 本稿を発表するにあたり,筑波大学人文社会系より「筑波大学ゲートウェイ(F1000)論文投稿支援プログラム」による支援を受けている。

The funders had no role in study design, data collection and analysis, decision to publish, or preparation of the manuscript.

[version 1; peer review: 4 approved with reservations]

Footnotes

1

本稿では,「ばかり」がとりたてる要素に該当しない例(いわゆる「例外」)のことを, 佐藤 (2017) に倣って「非該当例」と呼称する。なお,2.1 節で触れる 定延 (2001) はこれを「夾雑物」と呼称しているが,煩雑化を避けるため,本稿では「非該当例」という用語で統一する。

2

先行研究から引用した例文などの末尾にはその出典を記す。一方,出典のないものは筆者によるものであるが,筆者の作例には「#」を付すことがある。これは,当該の文が文法的ではあるものの,指定の文脈では不自然ということを示す記号である。また,引用した例文には「?」「??」を付すことがあるが,これは引用元の文献に倣ったものであり,いずれも当該の文が(やや)不自然であることを示す記号である。

3

先行研究では,数量詞の捉え方について幾つかの立場があり,遊離数量詞と呼称すべき範囲,あるいは名称そのものについても議論がある(詳細は 矢澤 (1988)加藤 (1997) などを参照されたい)。しかし,本稿ではその点には立ち入らず,副詞位置に生起する数量詞を便宜的に遊離数量詞と呼称する。

4

コーパスは 現代日本語書き言葉均衡コーパス (BCCWJ) を使用した。該当文抽出,内省判断の手順は以下の通りである。

・BCCWJをアプリケーション「中納言」で使用

・検索・抽出の手順は,

短単位検索

キー:ばかり

後方共起:キーから1語,品詞の小分類が名詞・数詞

→ヒット数 45 例

→上記 45 例を目視で確認,バグ 3 例を除外

→残った 42 例について母語話者により内省判断抽出された BCCWJ 内の文例を 1 例示す。

(i) 今日は、映画の予告編ばかり二十四本見てきました。(サンプルID:OY15_13680、yahoo 知恵袋))

5

(3) (4) について,非該当例が認められる場合でも成立すると判断する話者の存在も完全には否定できない。ただし,本稿においてこれらが当該の文脈で成立しないと主張するのは意味論のレベルであるのに対し,成立するという判断は語用論のレベルでなされるものであると考える。語用論の1つのモデルである「関連性理論 (Relevance Theory)」を提唱する Sperber and Wilson (1995) は,「思考の最適な解釈的表現は,聞き手にその思考について処理するに値するだけの関連性がある情報を与え,できるだけ処理労力が少なくてすむようにしなくてはなら」( Sperber and Wilson 1995: 284)ず,「厳密に言えば偽とわかっている」( Sperber and Wilson 1995: 284) 内容でも成立する場合があるとしている。非該当例が認められる場合でも (3) (4) が成立するという判断があり得るとすれば,それはこうした語用論のレベルでの判断であり,本稿が目的とする意味論のレベルの議論とは区別されるべきものである。

6

「『ばかり』が問題にする集合」とは, 沼田 (2009) 等で述べる,自者とそれに対する同類の他者が構成する集合である。詳しくは 沼田 (2009: 43-56) を参照されたい。

7

「探索領域」は「探索が及ぶ領域」( 定延 2001: 118)を,「探索課題」は「探索者が探索を通して解決しようとする課題」( 定延 2001: 119)を意味する。

8
佐藤 (2017) は,「認識的際立ち性という性質をよりもちやすくする要因」( 佐藤 2017: 11) の1つとして次のことを挙げている。
  • (i)
    事態が信念に照らし合わせて 有標的である。 ( 佐藤 2017: 11,下線は筆者)
    この指摘は,次のような文の容認度の差が踏まえられている。
  • (ii)
    太郎は 授業をさぼって ばかりだ。 ( 佐藤 2017: 12,下線は筆者)
  • (iii)
    ?? 太郎は 授業に出席して ばかりだ。 ( 佐藤 2017: 12,下線は筆者)

佐藤 (2017) は,「常識的な信念を有するものにとって,『授業をさぼる』〔筆者略〕といった行為はあるまじきものであり,有標性の高いものといえよう」( 佐藤2017: 12)と述べている。そのために「認識的際立ち性」が生じやすく,(ii) は自然な文となる。一方,(iii) が不自然なのは,「授業に出席する」という事態は「有標性」が低く,「認識的際立ち性」を持ちにくいためであると推察される。「非遅刻」という事態が「ばかり」が問題にする集合に含まれないのも,この事態が「授業に出席する」という事態と同様に「有標性」が低いためであると考えられる。

9

なお, 佐藤 (2017) は「本稿〔筆者注: 佐藤 (2017)〕が論じた集合形成の議論における知覚経験という観点は, 定延 (2001) の言うところの『探索』というわれわれの心身の行動を前提とするものであり,その意味で本研究は 定延 (2001) の議論の延長線上に位置づけられる」( 佐藤 2017: 13)と述べており, 定延 (2001) が提唱する「探索」という行動そのものに異議を唱えているわけではない。これについては本稿も同様である。

10

「ばかり」が事態を問題にするということは, 佐藤 (2017) 以前にも示唆・指摘されている。例えば, 森田 (1980) は次の (iv) のように, 菊地 (1983) は (v) のように述べ,「ばかり」と事態の関わりについて言及している。

  • (iv)
    「ばかり」は,“ある同一同類の主体がある範囲 で行う”とか,“同一同類の事柄をある範囲内 で行う”とか,“同一同類の対象に対して 行われる”とか,また,“ある同一の事物がある範囲の程度内で 存在する”とか,あるいは“ある事態に 対応するのがいつも同じ人物である”とか,いずれの場合も 動詞的叙述(傍点部分(筆者注: 本稿中斜体))を前提としている。 ( 森田 1980: 402,下線は筆者)
  • (v)
    バカリは,<同類として括れる 事態が数多くみとめられる>時に使われる。 ( 菊地 1983: 57,下線は筆者)

なお, 定延 (2001)菊地 (1983) による(v)の指摘に触れた上で,「『ばかり』の探索領域が事物の集合ではなく,事物を探索領域とする探索の集合であると考える点で,本稿〔筆者注: 定延 (2001)〕は菊地〔筆者注: 菊地 (1983)〕と同じ立場に立つ」( 定延 2001: 130)と述べている。その点では, 定延 (2001)も「ばかり」は事態に関わると捉えていると言える。

11

事態の数が多いということは「ばかり」が用いられる動機となり得るというだけで,「ばかり」が直接的に表現しようとする内容ではない。ただし,それに起因して「ばかり」が用いられることがある ((21b)) 以上,間接的には「ばかり」は事態の数が多いということを表し得ると言える。

12

奥津 (1983) 以降の数量詞研究では,しばしば「NCQ型」「NQC型」「NノQC型」「QノNC型」といった名称が用いられる。これらの名称は,数量詞をその現れ方によって分類した際に用いられるものであり,Nが名詞を,Cが格助詞を,Qが数量詞を指している。

13
この 矢澤 (1985) の指摘は,「NCQ型の数量詞は,述部が動詞句以外のときには,現れにくいという構文上の制約がある」( 矢澤 1985: 103)ことに基づいている。 矢澤 (1985) は,述部が動詞句以外である次の文において,「NCQ型」の数量詞を含む (vi) (vii) (viii) とそれ以外の数量詞を含む (ix) (x) (xi) では,前者の方が容認度が低いことを示している。
  • (vi)
    ? ココニイル女性ハ  五人 高校生ノ先生ダ ( 矢澤 1985: 103)
  • (vii)
    ? アノ会社ノ受付嬢ハ  三人 美シイ ( 矢澤 1985: 103)
  • (viii)
    ? アノ台ノ上ニ並ンダ牛乳ハ  五本 古イ ( 矢澤 1985: 103)
  • (ix)
    ココニイル女性 五人ハ 高校生ノ先生ダ       (NQC型) ( 矢澤 1985: 103)
  • (x)
    アノ会社ノ受付嬢ノ(中ノ) 三人ハ 美シイ       (NノQC型) ( 矢澤 1985: 104)
  • (xi)
    アノ台ノ上ニ並ンダ 五本ノ牛乳ハ 古イ        (QノNC型) ( 矢澤1985: 104)
14

これまでの議論では事態の「数」が問題となる現象,例をとりあげてきたが,「実験のために,残留塩素濃度が基準値を超える水ばかりを3000cc 集める。」のように「量」が問題となる例もある。これらも含めて扱うため,ここでは事態の「数量」とする。

15

なお,2つ提示されている「ばかり」の「限定の仕方」の 1 つである (33a) の説明は,その上位に当たる限定の意味に関する (30) の説明と完全に一致しているが,これはそもそも下位分類の設定として適切とは言い難い。この点も, 日本語記述文法研究会編 (2009) の捉え方に検討の余地があることを示唆している。

16

定延 (2001)も, 澤田 (2007) と同じく(36) を示唆しているように読める。 定延 (2001) は,「ばかり」は限定を表すという立場を採っており( 定延 2001: 113),その点で 澤田 (2007) とは異なる。一方で,「ばかり」が問題にする「世界探索の集合」は印象的・感覚的になっても問題ではなく,多少の非該当例の存在は「ばかり」の使用に影響しないとも指摘している( 定延 2001: 134)。この点については 澤田 (2007)との類似性が認められると言える。

17

この限定についての説明は,「ばかり」に関する先行研究での説明を踏襲したものである。例えば 丹羽 (1992) は,「限定とは,当該事態が唯一成立して他の事態は排除されるということ」( 丹羽 1992: 109)と述べている。また, 沼田 (2009) は「とりたて詞がとりたてる文中の要素」( 沼田 2009: 37)を「自者」,それに「端的に対比される『自者』以外の要素」( 沼田 2009: 37) を「他者」と呼び,「自者」が肯定され,かつ「他者」が否定されることを限定と呼んでいる( 沼田 2009: 196)。

18

そうした研究に当たるものは,管見の限り 日本語記述文法研究会編 (2009) のみである。しかし,その分析に問題があることは 4.1.1 節で述べた通りである。

参考文献

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F1000Res. 2022 Jan 21. doi: 10.5256/f1000research.59172.r112372

Reviewer response for version 1

Yasuto Kikuchi 1

1 査読者による要約

先行研究では、バカリは「限定」を表すとしばしば主張されてきたが、その一方で、バカリは「非該当例」を許容するとも指摘されており、この点で「限定」と捉えるのは不適当であるという指摘も行われてきた。この論文は、(1) 遊離数量詞を含む文のバカリは「非該当例」を許容しないという事実を指摘した、(2) (1)の事実について、なぜそうなのかという理由の説明を提示した、(3) (1)の事実をもとに、バカリは「限定」を表すと捉えるべきであると主張した[4.2]、の3点が骨子である。

2 評価できる点

(1)の事実の指摘[2.3.後半]は、最も評価してよい点である。

なおまた、取り上げるべき先行研究にほぼ粗漏はなく(ただし,後掲10参照)、先行研究への理解も適正のようである。

3 評価できるというほどでもないが、問題ではない点

(2)の理由の説明[3.3]は、内容としては成立はしているように思われる。

ただ、こうした趣旨のことを述べるのに、ここまで難しげに述べなければならないものか、という印象はある。多数の文法研究者に、こうした趣旨で説明文を書いてほしいという課題を課したら、もっとすっきりした答案がありうるように思う。その意味で、内容的には問題はないにせよ、評価できるというほどでもない、というレベルにとどまっている。

4 問題点

上記(3)の主張[4.2]は、残念ながら、十分な説得力をもつ論証を伴っていない。この点について、著者に理解してもらうために、以下に詳述する。

5 問題点の詳述

(1)により明らかになったのは、

ア.遊離数量詞がない場合は「非該当例」が許容される(「限定」とはいえない)。

イ.遊離数量詞がある場合は「非該当例」が許容されない(「限定」である)。

ということである(アは以前から知られていて、今回この論文が明らかにしたのがイ)。

これは、図式的にいえば、

   ア. Aの場合はP。

   イ. B(Non A)の場合はQ(nonP)。

というケースである。

事実はここまでであり、ここで、もし、ア・イのうちどちらか一方を「普通のケース」と見る、という見方を採らないのであれば、上記ア・イのまま併記して終わりにすることもできる。

だが、ここで、仮にアとイのどちらかが一般的・本来的な在り方(普通のケース)で、他方が例外的な・変則的な在り方だと見ようとするならば、AとBを比べて、いわゆる無標(unmarked)な場合のほうを一般的・本来的な在り方と見、有標(marked)な場合のほうを例外的・変則的と見るのが、普通に採られている見方であろう。遊離数量詞を含む文と含まない文とを比べ、一方を無標、一方を有標とせよと言われたら、大抵の言語研究者は、遊離数量詞を含まないほうを無標、含む文を有標と見るはずである。だとすれば、この場合はアを無標と見る、すなわち、

[Ⅰ]遊離数量詞を含まない(=普通の)ケースでは、バカリは非該当例を許容する(「限定」ではない)。

 ただし、遊離数量詞を含む場合は、非該当例を許容しない(「限定」的な意になる)。

という見方が順当である。これは、言語研究者の多くがごく普通に採る見方のように思われる。

  これを逆にして、

[Ⅱ]遊離数量詞を含む場合は、バカリは非該当例を許容しない(「限定」である)。

 ただし、遊離数量詞を含まない場合は、非該当例を許容する(「限定」でなくなる)。

という見方を採るとすれば、[Ⅰ]と[Ⅱ]は、どちらを但し書きにするか、つまり、どちらを普通と見るかが逆である、ということになる。

バカリの基本義を「限定」と見るという主張は、[Ⅱ]の見方を採った場合にのみ行える主張である。著者が前掲(3)のように「バカリ」の基本義を「限定」と主張しているということは、つまり、著者は[Ⅱ]の見方を採っているのだ、と見られる。だが、上述のように普通は[Ⅰ]のように見るところなので、[Ⅰ]ではなく[Ⅱ]のように見るためには、相応の根拠が必要なはずであるが、この論文では、それが示されないまま[Ⅱ]が採られているように読めた。

さらにいえば、著者は、

「遊離数量詞を含む文のほうが、遊離数量詞を含まない文よりも、文として「普通」の文である」

という主張をしている(しかも、根拠を示さずにそう主張している)のと、実は、同じことなのではないか、と査読者には見える。この点に大きな違和感を感じる。

一方、著者は、上記要約で査読者が(2)としてあげたように、〈遊離数量詞を含む文で「非該当例」が許容されない理由〉を説明しているが、実は、これは、遊離数量詞を含まない文を「普通のケース」と見た上で、遊離数量詞を含む文ではそのように行かないことの理由を説明した、という発想のものなのではないか。つまり、著者自身、実は[Ⅰ]の見方に拠っているのではないか、とも思われる(だとしたら、「限定」を基本義と見るのは成り立たない)。もし、著者の基本的な主張のとおり[Ⅱ]の見方を採るなら、その場合は、〈遊離数量詞を含まない文で「非該当例」が許容される理由〉のほうを丁寧に説明すべきことになる。その説明が行われていない点も不備であろう。

察するに、著者には、バカリを「限定」と見たいという潜在的な意識があり、それに好都合な遊離数量詞のケースを発見したので(ここまではいいのだが)、その遊離数量詞のケースをスタンダードのように捉えて残りの議論を展開し、望んでいた「結論」に到達させた、というケースなのではなかろうか。だが、後段の議論には、上述のように無理があり、成立していないと言わざるを得ない。上記ア・イのような事実が観察された場合、どちらが一般的・本来的な在り方かを合理的に見極めるべきところ、それを欠いたまま(厳しく言えば、冷静で合理的な「大局観」を欠いたまま)、いわば論点先取的に遊離数量詞を含むほうを本来的な在り方と見てしまった、というケースかと推測される。

6 承認ステータスについて

 本プラットフォームの承認水準がどのぐらいのものなのか、初めての査読であるため判断できないところがあるが、一応、学内の紀要などではないレベル(学会誌並みのレベル)であるなら、残念ながら、以上のように論証に不十分な点があり、そのままの形での承認には至らない。むしろ、このまま承認し公開を続けることは、著者への評価を下げることになりそうに思われる(→次項)。

 しかし、(1)の事実の指摘には意義があるので、不承認とはせず、条件付き承認としておく。相当根本的な修正が必要であり、その方向性を下記に助言しておく。

7 改善の方向など

論証に問題がある論文については、普通は論証をしっかり補強するようにという助言を行うところであるが、この論文では、「限定が基本義である」とする議論を成立させることは困難である、と査読者は見る。

そこで、冒頭の要約に示した(1)(2)(3)のうち、(3)は取り下げるべきだと考える。(1)を指摘し、(2)でその理由を説明するだけでも、地味ではあるが、十分立派な論文である。確実に正しいところまでで止めるというのは、研究者として重要な姿勢である。(3)を主張した途端に、少なからぬ読者に、怪しげな論、あるいは強弁だという印象を与えてしまい、著者への評価を下げることになりかねないのではないかと、査読者はその点をおそれるものである。

査読者は、この論文は、次のように仕立て直すのがよいのではないかと考える。:

・(1)を指摘する。

→・「そうはいっても、遊離数量詞がない場合が、基本義が反映されている場合だと見るべきである。」と確認する。(先にア・イなどとして説明した箇所を参考にされたい)

→・「では、遊離数量詞がある場合にはなぜ……?」という問を立てて、(2)に相当する議論を展開する。投稿者の(2)の議論は上で批評したようにやや難解であるが、要するに、「バカリは、基本的には〈認識的な際立ち〉に基づいて〈数多く観察される〉ことを表すだけなので、非該当例を許容しうるが、数量詞を伴った場合は、数量情報との合致が求められるため、正確な限定を表す結果となる」という趣旨の説明をすればよいと考える。

→・その上で、遊離数量詞がある場合に「限定」的になることについては、このように説明がつくのだから、バカリの基本義を「限定」でないと見ること自体は問題ない(むしろ支持される)、というふうにまとめる。

これが穏当な道だと査読者は考える(あくまでも査読者の意見であるが)。

8 論の補強のための参考

「先行研究では……「ばかり」がそれ(=非該当例)を許容しない環境があることについて指摘・考察した研究は管見の限り存在しない。」[2節末]とあるが、実は、否定を伴う場合には、「ばかりでなく」は「だけでなく」と事実上同義である、ということは、多くの日本語教授者が承知していて学習者にも教えていることである。研究としての明記はないかもしれないが、これは、「非該当例の許容」のない意味でのバカリを否定している(だから「該当例が他にもある」という意味になる)と見るべきケースであり、こういう難しい言い方はしていなくても、事実としては知られてきたと言いうるものである。

数量詞と否定が「お友達」である、というふうに見える言語現象は、あれこれあるかと思われ、あわせて検討してはどうか。

なお、数量詞や否定絡みで不思議なことが起こる場合(例えば、生成文法の古典期に「変形は意味を変えない」と言っていたときに、manyやsomeが絡む受身文では、能動文とは違う意味になる(スコープ絡み)、ということが指摘された)は、あくまでも、その変わったことが起こる場合が有標なケースである、という理解をすべきことは、念のため付言しておく。

9 その他の問題点:

■ 例文の適否判断に疑問がある点[2節末]:

(17) 【女性を 400 人,男性を 100 人招待した場合】

a. # 女性 ばかり  500 招待した。

b. 招待した  500 は女性 ばかりだ。

査読者の語感ではbも#である。[だとすると、この論文の主張(この査読の冒頭で示した要約中の(1))は、「遊離数量詞」だけについてではなく、「数量詞」全般について成り立つことになる。] このようなデリケートなケースでは、アンケートの実施が必要であろう。

なお、冒頭に査読者が(2)としてあげた理由の説明について、著者は「事態」ということに依存した説明を考えているが、上記7の中で述べたように、「数量情報との合致が求められる」ということがポイントなのではないかと思われ、「事態」への依存は必ずしも必要ではないように思われる。だとすれば、遊離数量詞でない数量詞について同様の現象が観察されても困らないのではないかと思われ、事実に誠実な論を組み立てることを薦めたい。

■ 日本語記述文法研究会編 (2009) の紹介と論評の部分[4.1.1]

 著者のこの箇所の骨子に問題はないが、要するに、「同書は、(30)を(33a)と(33b)に分けられるかのように見せているが、この部分を一読するだけで、(33b)が(30)の下位区分になっていないことは、すぐ見て取れる。」というケースなので、もっと簡単に(失礼にならない程度に)、そのような趣旨のことを述べてあっさり片づけてよいのではないか。「注目に値する」と持ち上げるほどのものではないと思う(気を遣ったのかもしれないが、厳然と否定すべきケースだと思う。

なお、(32)の下、「理論的矛盾」とあるのは「論理的矛盾」では ?

■ 澤田 (2007) の紹介と論評の部分[4.1.2]

 澤田の指摘(の、少なくとも方向)は、ごく全うなものだと査読者には評価できる。

ただ、遊離数量詞の文のバカリについては、その時点で留意されていなかったので、それにかかる補いが必要である、というだけのことであり、この小節のタイトルを「澤田(2007)の指摘とその問題点」とするのは、多少の違和感がある。小さなことではあるが、こう書くと、澤田(2007)の立論自体にすでに不備を抱えていたかのような印象を受けてしまう。遊離数量詞についてはこれまでの先行研究は誰も気づいていなかったのだから、それはやむを得ないであろう。これをカバーできていなかったことを問題点というなら(確かに問題点ともいえるが)、全ての先行研究について「○○(xxxx)の問題点」と言わなければならないことになる。

 この節は、遊離数量詞の問題に出会う前から、「限定(のように見える場合があること)」と「非該当例があること」を、どうやって料理するかという問題に取り組んできた研究があるのだ、という話を中核にし(4.1節のタイトルもそのようなものにするのがいいように思う)、日本語記述文法研究会編 (2009) と澤田(2007)を紹介すればよく、両者ともに遊離数量詞については扱っていないということについては、ここでは過大に問題視しなくていいように思う。

また、4, 2の冒頭に、この両研究について「いずれにおいても問題がある」という整理になっているが、澤田は(遊離数量詞の問題に気づいていない点を別にすれば)相応に料理できていたのに対し、日本語記述文法研究会のほうは成功していないので、「問題」とはいっても、だいぶ水準が違うのではないか。このまとめ方はいかがかと思う。

なお、澤田の紹介にあたり、著者は「澤田は……限定(的解釈)はそこから「派生」する「二次的な効果」であると捉えている。つまり、限定は「ばかり」の意味ではなく、言わば語用論的効果であるとしているのである。」と述べているが、細かい点ながら、「派生」「二次的」ということをあっさり「語用論的」と言い換えてよいのかは疑問である。「派生」「二次的」ということは、「意味論」の世界の中でも起こりうることであり、本件に関しては、そう捉えるだけでも、議論が成り立つのではないかと思われる。澤田が、この「派生」「二次的」を意味の問題と考えているのか、語用論の問題と考えているのか、あるいはその点は不問に付しているのかは、わからないというべきであろう。「語用論的」と(勝手に)言い換えることには慎重でありたい。

10 参考文献

以下を加えてもよいのではないか。

安部 朋世「バカリによる「限定」」『和光大学表現学部紀要』 2000,1,pp.135-144,和光大学表現学部.

以上

(該当する場合は要回答)統計分析および解釈は適切ですか。

対象外(統計を使っていない)

本研究は明確かつ正確に提示されたものであり、最新の文献を引用していますか。

はい

方法と分析について第三者による再現が可能となるよう十分な詳細が提示されていますか。

はい

結果の基礎となるソースデータはすべて入手可能で再現性を十全に保証していますか。

ソースデータは不要

結論は結果により妥当な裏付けを得ていますか。

一部該当

研究設計は適切で学術的価値がありますか。

一部該当

Reviewer Expertise:

日本語学、特に日本語文法。日本語教育。

I confirm that I have read this submission and believe that I have an appropriate level of expertise to confirm that it is of an acceptable scientific standard, however I have significant reservations, as outlined above.

F1000Res. 2022 May 31.
YOSHIKO NUMATA 1

菊地先生

お忙しい中,拙稿の査読のために貴重なお時間を割いていただき,誠にありがとうございました。早速多くのご意見を頂いたにもかかわらずご回答が遅くなってしまい,大変失礼いたしました。以下,頂いたご意見につきまして,可能な限りご回答申し上げます(以下ではご意見を頂いた原稿を「第1稿」,修正した原稿を「第2稿」と呼称しております)。なお,すべてのご意見に対して十分なご回答をご用意することはできませんでしたが,第2稿では構成・論じ方を含めて修正を施しました。依然として不十分な点があるかと存じますが,その点につきましては改めてご指摘いただければ幸いです。

1.「5 問題点の詳述」におけるご意見について

ご意見をくださりありがとうございます。確かに,第1稿では,「ばかり」は遊離数量詞と共起する場合に「限定」を表し,遊離数量詞と共起しない場合は「限定」を表さないかのように述べられております。しかし,これは筆者の述べ方の不備によるものであり,本来の意図はそうではありませんでした。

筆者は,「ばかり」が遊離数量詞と共起する場合に非該当例が許容されないという現象について,“「ばかり」は(遊離数量詞との共起の有無を問わず)集合の内部に非該当例が無いことを表す(=「限定」を表す)”ということを示唆していると考えております。つまり,「ばかり」と数量詞の共起については,「ばかり」の「無標」のケース,あるいは「普通」のケースと捉えているのではなく,「ばかり」の意味について示唆的な現象を観察することできるケース(の1つ)と捉えております。第2稿では述べ方を全面的に修正し,この点が明確になるようにいたしました。

2.「9 その他の問題点 例文の適否判断に疑問がある点」におけるご意見について

確かに,第1稿(17b)を(17a)と同様に「#」と判定する話者が存在する可能性は否定できません。そうであれば,ご指摘いただいたように「数量情報との合致」が重要ということになると考えられます。一方で,相対的にはやはり(17b)の方が文脈的自然度は高いとも考えております(第2稿注12)。つまり,「数量情報との合致」が重要ではあるものの,その情報が「事態」の数量である場合にはより強固な「合致」が求められると考えております。

3.「9 その他の問題点 澤田(2007)の紹介と論評の部分」におけるご意見について

確かに,澤田(2007)は「ばかり」の振る舞いについて遊離数量詞と関連付けて議論しているわけではなく,それはご指摘の通り「その時点で留意されていなかった」ためであると思われます。しかし,澤田(2007)について,第1稿では遊離数量詞が生起する場合の現象に触れていない研究として取り上げているわけではなく,“「ばかり」の意味は「限定」ではないと主張する研究”として取り上げております。これは第1稿の主張と対立するものであるため,「澤田(2017)の指摘とその問題点」というタイトルで取り上げた次第です。

ただし,第1稿は筆者の意図が十分に伝わりにくい記述になっておりました。また,第1稿における澤田(2007)の位置づけには不十分な点がございました。これらを踏まえ,第2稿では澤田(2007)との関係性に関わる部分の記述を修正いたしました(第2稿4.2節・4.3節)。

なお,ご指摘の通り,澤田(2007)による「派生」「二次的」という表現を「語用論的」と言い換えていたことは不適切でしたので,第2稿ではこれを削除いたしました(第2稿4.2節(35)の直後)。ご指摘いただきありがとうございました。

4.「10 参考文献」におけるご意見について

安部(2000)を参考文献に加えました(第2稿注17,参考文献欄)。ご指摘いただきありがとうございました。

F1000Res. 2022 Jan 6. doi: 10.5256/f1000research.59172.r112374

Reviewer response for version 1

Mieko Sawada 1

本論文は、「ばかり」が非該当例を許容しない現象があることを指摘した点は、学術的新規性が高いと判断する。本論文が主張するように、(27)は非該当例を含まない例として解釈できる。

(27) 白いシャツばかりを1000 枚購入した。

しかしながら、「ばかり」が遊離数量詞と共起する場合でも非該当例を含む場合がある。 

例えば、Aの例は釣り好きの友人の発話である。

A:この間、カワハギばかりを10枚釣ったよ。

Aの発話は、「ばかり」が遊離数量詞と共起している例である。筆者がAの発話に対して、「カワハギ以外は釣れなかったのか」と尋ねたところ、「外道(本命以外の魚)も何匹か釣った」という回答だった。つまり、遊離数量詞の場合でも非該当例を含む場合があるということである。

Bはガチャに凝っている友人に聞いたところ、Bの発話は自然であるということであった。

B:10回ガチャやったら、サルばかりが5匹出た。

Bの発話も遊離数量詞の例である。Bは10回ガチャをやって、サルが5回でた場合の発話であった。釣り好きの友人もガチャに凝っている友人も日本語の母語話者である。

 では、(27)とA、Bの例の違いについて考えてみたい。(27)を他者の発話として聞き、非該当例を含まないと解釈する場合は、他者が1000枚の白いシャツを買ったと解釈した場合である。また(27)が話し手の自伝的記憶を想起して発話された場合は、話し手は事態をコントロールしており、意図的に1000枚購入している。一方、AとBの共通点は、いずれの話し手も自伝的記憶を想起しており、釣りもガチャも話し手のコントロールが及ばないことを認知しており、複数回行っているという点である。

 この現象は、「ばかり」が遊離数量詞と共起する場合の発話でも、話し手が自伝的記憶を想起して、行為が複数回であった場合、非該当例を含む場合があることを示唆している。このように、「ばかり」を使用した文が非該当例を含まない解釈は特別な条件が必要であり、 「ばかり」の意味は非該当例を許容しない「限定」と考えるのが妥当であるという主張が理解できない。ゆえに、「ばかり」の意味を「限定」と位置づけることの意義を示してほしい。筆者は、日本語の認知言語学の発展のためにも、「ばかり」のように意味の分化が非常に興味深い不変化詞は、様々な観点から研究をしていくことが有意味であると考える。ゆえに本論文で、今後の方向性と示されている「対象集合についての詳細な議論」は非常に興味深いと考える。

(該当する場合は要回答)統計分析および解釈は適切ですか。

はい

本研究は明確かつ正確に提示されたものであり、最新の文献を引用していますか。

はい

方法と分析について第三者による再現が可能となるよう十分な詳細が提示されていますか。

はい

結果の基礎となるソースデータはすべて入手可能で再現性を十全に保証していますか。

はい

結論は結果により妥当な裏付けを得ていますか。

一部該当

研究設計は適切で学術的価値がありますか。

はい

Reviewer Expertise:

認知言語学、日本語学

I confirm that I have read this submission and believe that I have an appropriate level of expertise to confirm that it is of an acceptable scientific standard, however I have significant reservations, as outlined above.

F1000Res. 2022 May 31.
YOSHIKO NUMATA 1

澤田先生

お忙しい中,拙稿の査読のために貴重なお時間を割いていただき,誠にありがとうございました。早速多くのご意見を頂いたにもかかわらずご回答が遅くなってしまい,大変失礼いたしました。以下,頂いたご意見につきまして,ご回答申し上げます。なお,以下ではご意見を頂いた原稿を「第1稿」,修正した原稿を「第2稿」と呼称しております。

「ばかり」が遊離数量詞と共起しても非該当例を含む場合があるというご指摘について

確かに,ご提示いただいた①②の例はサル以外のキャラクター(非該当例)が出た場合やカワハギ以外(非該当例)が釣れた場合でも成立すると思われます。

①    10回ガチャやったら,サルばかりが5匹出た。

②    この間,カワハギばかりを10枚釣ったよ。

しかし,“「ばかり」が遊離数量詞と共起した場合は非該当例を許容しない”という筆者の主張は,①の例で言えば,10回出たキャラクターの中にサル以外(非該当例)は含まれないということではなく,“遊離数量詞「5匹」が表す数量の中にサル以外(非該当例)は含まれない”ということを示すものです。同様に,②の例で言えば,“遊離数量詞「10枚」が表す数量の中にカワハギ以外(非該当例)は含まれない”ということを示すものです。特に①の例は「サルが5回でた場合の発話」ということでご紹介いただきましたので,これは筆者の主張を支持する例であると考えております。しかし,第1稿では筆者の主張がやや曖昧になっている箇所がございましたので,第2稿ではその点を修正いたしました(第2稿1節(5)の直後や2.3節(19)などを始めとする複数箇所)。

また,確かに①②の例と次の③の例は「話し手のコントロール」や行為の複数性において差が認められると言えます。

③    白いシャツばかりを1000 枚購入した。

しかし,前述の通り,筆者の主張は遊離数量詞が示す数量の中に非該当例が含まれないというものであり,その点では①②と③の間に差は認められません。従って,少なくとも「話し手のコントロール」が及ぶ事態であることと「行為が複数回」でないことを指して「特別な条件」とする場合においては,「『ばかり』を使用した文が非該当例を含まない解釈は特別な条件が必要」ということにはならないと考えます。

一方,ご指摘いただいた内容は,遊離数量詞が表す数量と事態の総数量との関係において,①②の例と③の例で差があるということを示していると理解いたしました。具体的には,①②の場合は「5匹」「10枚」が「出た」「釣った」の総数量と(必ずしも)一致しない(出た数>5匹,釣った数≧10枚)のに対し,③の場合は「1000枚」が「購入した」の総数量と基本的に一致する(購入した数=1000枚)ということです。つまり,ご指摘に照らせば,「話し手のコントロール」が及ばない事態,かつ「行為が複数回」である場合(①②)は遊離数量詞が表す数量と事態の総数量が(必ずしも)一致せず,反対に「話し手のコントロール」が及ぶ事態,かつ「行為が複数回」でない場合(③)はそれらが基本的に一致するということになります。これは数量詞研究で言われるところの「全体量」と「部分量」の議論にも関わる可能性があり,大変興味深い現象ですが,今回の議論の範囲を超えていると判断し,第2稿では扱いませんでした。

F1000Res. 2022 Jan 6. doi: 10.5256/f1000research.59172.r112370

Reviewer response for version 1

Takuzo Sato 1

「ばかり」の意味解釈に数量詞をからませて分析している着眼に新規性があり、非常に興味深い。また、「ばかり」の、機能をあくまで「限定」として位置づけたうえで、例外的ともみえる現象に対して統一的な説明を与えようとする結論も説得的である。

唯一、問題点として残るのは、鍵となる例文の解釈が恣意的で説得力に欠ける点である。数量詞の働きにより非該当例解釈が許容されない例文の解釈には再考の必要性があるのではないだろうか。

例えば、例文(23)の「100枚のシャツを購入した」に関して、(23’)において「計1000の「購入する」という事態が生じた」としている。しかしながら、(23)のデフォルト解釈はむしろ「「1000枚のシャツ購入」という事態が1回生じた」ではないか。(23)において非該当例解釈ができないのは、先行研究のいう「複数制の制約」によるとみるのがより自然である。

このような疑問が生じないような説明を与えるか、もしくは上述の線から数量詞による非該当例解釈の阻止という事実に光を与えるべきと思われる。

(該当する場合は要回答)統計分析および解釈は適切ですか。

一部該当

本研究は明確かつ正確に提示されたものであり、最新の文献を引用していますか。

はい

方法と分析について第三者による再現が可能となるよう十分な詳細が提示されていますか。

はい

結果の基礎となるソースデータはすべて入手可能で再現性を十全に保証していますか。

はい

結論は結果により妥当な裏付けを得ていますか。

はい

研究設計は適切で学術的価値がありますか。

はい

Reviewer Expertise:

現代日本語の文法論および意味論

I confirm that I have read this submission and believe that I have an appropriate level of expertise to confirm that it is of an acceptable scientific standard, however I have significant reservations, as outlined above.

F1000Res. 2022 May 31.
YOSHIKO NUMATA 1

佐藤先生

お忙しい中,拙稿の査読のために貴重なお時間を割いていただき,誠にありがとうございました。早速多くのご意見を頂いたにもかかわらずご回答が遅くなってしまい,大変失礼いたしました。以下,頂いたご意見につきまして,ご回答申し上げます。なお,以下ではご意見を頂いた原稿を「第1稿」,修正した原稿を「第2稿」と呼称しております。

1.非該当例解釈が許容されない例文の解釈について

ご指摘の通り,「シャツばかり1000枚購入した」の一般的な解釈は「“1000枚のシャツ購入”という事態が1回生じた」であると思われます。それにもかかわらず「“購入”という事態が1000回生じた」という解釈を示したのは,いわゆる「探索」が1000回行われた(遊離数量詞の示す数が「探索」の数と一致する)ということを示す意図がございました。

なお,筆者はこのように「探索」の数(「ばかり」が形成する主観的集合の要素の数)に関与するのは遊離数量詞(副詞位置に生起する数量詞)に限られると考えておりました。例えば,女性400人と男性100人を招待した場面では,次のように遊離数量詞が生起する①は不自然であり,そうでない数量詞(以下,非遊離数量詞)が生起する②は自然であると考えておりました。

【女性を400人,男性を100人招待した場合】

① # 女性ばかり 500 招待した。

②    招待した 500 は女性ばかりだ。

しかし,菊地先生に頂いたご意見により,当該の場面では②も不自然と判定する話者も存在することが分かりました。これは,非遊離数量詞も「探索」の数に関与し得ることを示唆しております。

ただし,そうした話者が存在しても,少なくとも①よりは②の方が許容されやすいと考えております。つまり,“数量詞が生起した場合は,それが示す数が「探索」の数と一致し得るが,特に遊離数量詞は(「探索」と親和性がある「事態」と密接に関わるため)その含意が生じやすい”と考えております。

2.非該当例許容解釈の不成立と複数性の制約について

筆者は「複数性の制約」について,概ね“「ばかり」は事態(≒探索)が複数である場合にのみ用いられる”という制約であると理解しております。「シャツばかり1000枚購入した」で言えば,例え1000枚のシャツを一度に購入した(行為の回数=単数)という場合でも,「シャツである」という結果が得られる「探索」が“複数”行われていれば当該の文が成立するため,その意味では今回の考察課題にも「複数性の制約」が関わっていると捉えられます。

しかし,非該当例許容解釈ができない要因と「複数性の制約」については関係性を見出しておりません。筆者の理解が及んでいない,あるいはそもそも当該の制約に関する理解が不十分であるという可能性がありますが,少なくとも現時点ではそのように考えております。大変恐れ入りますが,修正した第2稿を今一度ご確認いただき,非該当例許容解釈ができない要因についてはやはり「複数性の制約」と関連づけて説明する方が自然という場合には,改めてご指摘いただきたく思います。

F1000Res. 2021 Dec 20. doi: 10.5256/f1000research.59172.r112371

Reviewer response for version 1

Toshiyuki Sadanobu 1

論文を読ませていただきました。遊離数量詞構文において「ばかり」が「非該当例」を許容しなくなるという観察は意義あるものと判断します。が、この論文が(賛否は別として)一つの論考として成り立つには、クリアしなければならない問題もあると判断し、「条件付き承認」と判定します。以下、問題について説明し、提案を書きます。ご参考になれば幸いです。

問題1:前提とされている概念「意味」がはっきりしない。

論文では、「「ばかり」の「意味」とは何か?」という論点が設定され、この論点をめぐる形で考察が展開されています。が、その「意味」とは、どういうものを含み、どういうものを含まないのでしょうか? ある説を対立説(要旨のことばで言えば「「ばかり」の意味を限定ではないと示唆・主張する研究」)と位置付けて反駁したり、自説を主張したりするには、まずこの点が明らかにされる必要があると考えます。

仮にある研究者が「「ばかり」は限定を意味する」あるいは「「ばかり」は限定を意味しない」と明記していても、その研究者の「意味」の概念を、著者の「意味」観と比べ、対応づけを検討しなければ、その研究者の見解を自説の仲間、あるいは対立説に位置付けることはできないでしょう。

論文が挙げている先行研究の中で、対立説と位置付けられているものは唯一、澤田(2007)だけですが、これも、本当に対立説と言えるのか、論文を読んでいて確信できませんでした。というのは、澤田(2007)の考えとして引用されている第4.1.2節の(35)は、「ばかり」を発する話し手の動機(「目的」)について述べられたものであって、「ばかり」の意味について述べられたものではないからです。その末尾の部分には、限定的解釈が「派生的」にせよ「でてくる」とも書かれています。これを本当に、「「ばかり」は限定を意味しない」と述べたものと読み込んでよいのでしょうか。

以上のことを、著者自身自覚されているのではないかと思わせる、記述の弱さが論文には見られます。もし、どうしても澤田(2007)を対立説とみなして「ばかり」の意味論にこだわるのであれば、それらは改めるべきでしょう。具体的に言うと、要旨欄の「示唆・主張」は「示唆・」を削除して「主張」とするべきでしょうし、対立説は第4.1.2節ではなく第1節で真っ先に紹介すべきでしょう。第2節末尾の「ばかりの意味についても考察する」は、これこそがメインのはずですから、「も」は削除すべきでしょう。

問題2:遊離数量詞を持ち出す意義がはっきりしない。

遊離数量詞を持ち出す意義も、はっきり理解できませんでした。これも、論点として「ばかり」の意味論が設定されている結果ではないでしょうか。というのは、「「ばかり」の意味=限定」説は、遊離数量詞を持ち出さなくても、他の、ずっと簡単な形でも主張できるからです。以下、それを具体的に2つ述べます。

その1:「厳密に」「厳密な話」などの語句が「~ばかり」にかかるだけで、「非該当例」は許容されにくくなります。例:うどん以外も食べていた場合、「先週はうどんばかり食べてたよ」と比べて「先週は厳密な話、うどんばかり食べてたよ」は自然さが低い。

その2:「非該当例」の存在が会話相手に知られた場合、相手に反駁され得ます。例:うどん以外も食べていたことが聞き手に知られた場合、「先週はうどんばかり食べてたよ」と言えば、「うどんばかりじゃないじゃん。×××も食べてたじゃん」などと反駁される可能性があります。

いずれも、「非該当例」が、いわば「非公式のもの」でしかないことを示すものです。こうした「非該当例」の「非公式性」は、多くの研究者に共有されており、(「意味」の定義はさまざまであれ)「「ばかり」の意味=限定」説は広く受け入れられているものではないか、というのが評者の認識です。

問題3:仮説がアドホックに感じられる。

評者の理解によれば、著者は、遊離数量詞の効果で「非該当例」が許容されなくなるという自身の観察を、次の2段階の仮説によって説明することで「ばかり」の意味論につなげようとしています。以下、評者のことばで述べます。(ちなみに「「現実世界の事態の数量」との(不)一致」という表現には、改善の必要を感じます。「もしあの時、白いシャツばかり10枚買っていたなら~」のような、仮定世界や反事実世界の話をも「現実世界」と言わねばならないことになってしまうからです。)

段階1:「ばかり」の話し手が想定する集合は、2種類あり得る。集合は、「当該文脈で想定される候補の集合」(=とりたて表現一般に想定される集合で、「非該当例」を含む)とは別に、「非該当例を排除した集合」でもよい。

段階2:「ばかり」の文に遊離数量詞が現れ、事態の数が明示される場合は、「非該当例を排除した集合」が想定できず、「当該文脈で想定される候補の集合」しか想定できなくなる。にもかかわらず、この場合、「非該当例」は許容されない。(だから「ばかり」は限定を意味する。)

ここでは、以上の2段階のうち、段階1について述べます。

この仮説(段階1)は、「限定を意味するはずの「ばかり」が「非該当例」を許容する」という謎を、「「ばかり」の話し手が想定する集合としては、「非該当例」を排除した集合が許容される」という、別の謎に変換しています。この変換については、佐藤(2017)が参考にされているとはいえ、論拠が出されておらず、アドホックに感じられます。

提案:諸説の統合

以上の3つの問題を回避あるいは解決し、この論文を一つの論考として成り立たせるための提案をおこないます。(単なる提案ですので、却下していただいても構いません。)

それは、「「ばかり」の意味とは限定か、そうでないのか?」という論点の代わりに、「「ばかり」の非該当例が許容される場合と許容されない場合の違いとは?」という別の問題を立て、この問題に、これまでの諸説を統合する形で解答を与える、ということです。

問題3について、論文では、仮説(段階1)の論拠が出されていませんが、これに強く関連する概念「集合」については、菊地(1983)に始まる先行研究の言及があります。これを利用すればどうでしょうか。評者のことばで言えば、それは((8)に書いていただいているように)「探索の集合」ということです。探索とは体験の中核を占めるもので、探索の集合を語るということは、結局、体験の集合を語るということです。体験談では、その体験を「語るに足る」(つまりreportableな)ものにするために、嘘と思われない程度の誇張や脚色がなされやすいと考えると(Labov 2001)、ある偏り(例:先週の自分の食生活の偏り)を表すのに、知識として語らず、その知識を探る個人的な体験として語る場合、非該当例が許容されやすいということも、自然なこととして理解できるのではないでしょうか。

なお、探索と体験については、たとえば拙著(定延2016)をご覧いただければと思います。そこでは、ある料理について「からいばかりで少しもおいしくない」と言う場合のような、形容詞+「ばかり」についても取り扱っています。

要望:非該当例が許容されなくなる根本原因について、さらに論じていただきたい。

上記の段階2について述べます。著者は、遊離数量詞で事態の数が明示されると、「非該当例を排除した集合」が想定できなくなる、と論じています。が、事態の数が明示されると、なぜそのような効果が得られるのでしょうか。つまり、事態の数として、非該当例を含んだ数がなぜ表示できないのでしょうか?

論文はこの問題について論じておらず、そのため、現象を説明しているのか、説明すべき現象を単に別の形で言い換えているに過ぎないのか、はっきりしないというのが、率直な感想です。この問題について、論じていただきたい、その際、以下2点についても触れていただければというのが、評者の要望です。

その1:上に記したように、「非該当例を排除した集合」を想定不能にするものとしては、いろいろなものがあり得ます。たとえば、「厳密な話」などの語句を挿入することです。またたとえば、相手に反駁され得ないような客観的な描写を話し手が心がけるだけでも、「非該当例を排除した集合」は想定されなくなります。遊離数量詞による事態の数の明示は、「非該当例を排除した集合」を想定不能にする根本的な原因ではなく、さまざまな要因の中の一つとして位置づけられるべきではないでしょうか?

その2:もう少し言えば、遊離数量詞による事態の数の明示が「非該当例を排除した集合」を想定不能にするというのは、傾向であって、例外もある、と考えられないでしょうか? 著者は、「遊離数量詞」として、数詞から成るものばかりを挙げていますが、遊離数量詞としては、数詞の現れない、より感覚的なものも考えられます。以下の実例をご覧ください。

まあね、中にはおっさんもいますけど、そうですねぇ、8割ぐらいが若いきれいな女の子なんですわ。もう、絶対顔で客選んでるやろ!っていうぐらい、きれいな子ばっかりの店なんですね。

[三好康之・ITのプロ46 2020『情報処理教科書 高度試験午後Ⅱ論述 春期・終期 第2版』 p. 63,翔泳社]

この例で述べている状況は、「この店には、もう、絶対顔で客選んでるやろ!っていうぐらい、きれいな子ばっかりがいる」という文で表される状況で、この文には「もう、絶対顔で客選んでるやろ!っていうぐらい」という数量詞(と言って悪ければ数量詞句)が現れています。が、著者によればその割合は10割ではなく「8割」で、2割は「おっさん」などのようです。この例は別としても、たとえば「朝からおかしな答案ばっかり、山ほど採点してこっちまでおかしくなる」などと言うことは、「山ほど」採点した答案の中にまともな答案が少しぐらい入っていても自然かもしれません。もしも仮に、遊離数量詞の中に、数詞から成るものと、そうではない、より感覚的なものの違いが見られるのであれば、それもまた、「ばかり」の体験性と関連していると考えられはしないでしょうか。

見知らぬ異国の街をバスで走行中、車外の風景を眺めている観光客が、「この街にはあちこちにレストランがあるね」という意味で同乗者に「この街にはしょっちゅう、レストランがあるね」と言うのは、「この街には30秒に1軒、レストランがあるね」などと言うより自然だとすると(定延 2016)、そうした遊離数量詞の区別も、これと並行しているのかもしれません。このような可能性もご一考いただければ、ご論考がさらに内容豊かなものになると考えました。

以上、勝手なことを書きましたが、理解の不足や誤りがありましたら失礼します。少しでもご参考になる部分があれば幸いです。

Labov, William. 2001. “Uncovering the event structure of narrative.” In Deborah Tannen and James E. Alatis (eds.), Georgetown University Round Table on Languages and Linguistics 2001, pp. 63-83, Washington, DC: Georgetown University Press.

定延利之 2016 『煩悩の文法―体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話(増補版)』東京:凡人社

(該当する場合は要回答)統計分析および解釈は適切ですか。

対象外(統計を使っていない)

本研究は明確かつ正確に提示されたものであり、最新の文献を引用していますか。

はい

方法と分析について第三者による再現が可能となるよう十分な詳細が提示されていますか。

はい

結果の基礎となるソースデータはすべて入手可能で再現性を十全に保証していますか。

はい

結論は結果により妥当な裏付けを得ていますか。

一部該当

研究設計は適切で学術的価値がありますか。

はい

Reviewer Expertise:

言語学、コミュニケーション論、日本語学

I confirm that I have read this submission and believe that I have an appropriate level of expertise to confirm that it is of an acceptable scientific standard, however I have significant reservations, as outlined above.

F1000Res. 2022 May 31.
YOSHIKO NUMATA 1

定延先生

お忙しい中,拙稿の査読のために貴重なお時間を割いていただき,誠にありがとうございました。早速多くのご意見を頂いたにもかかわらずご回答が遅くなってしまい,大変失礼いたしました。以下,頂いたご意見につきまして,ご回答申し上げます。なお,以下ではご意見を頂いた原稿を「第1稿」,修正した原稿を「第2稿」と呼称しております。

1.「意味」と澤田(2007)について

ご指摘の通り,第1稿では「意味」という概念が「どういうものを含み、どういうものを含まない」のかということを明示しておりませんでした。このご指摘は,第1稿において,特に澤田(2007)との差を“「ばかり」の意味を限定とするか否か”という点に求めていることと密接に関係すると思われます。ご指摘いただき誠にありがとうございました。ご指摘については,「意味」一般について十全な定義に及ぶことはできませんでしたが,澤田(2007)と本稿との違いを明確に示すように改稿しました(第2稿4.3節第3段落)。

改めた記述の内容をまとめると次のようになります。澤田(2007)はとりたてる要素が「多い」(あるいは「多すぎる」)ということを伝えるのが「ばかり」にとって重要であり,「限定」はその「二次的な効果」と述べております。この記述につきまして,当該要素が「多い」場合に「ばかり」が用いられるという点は筆者の立場と一致しております。しかしながら,「多い」ということを伝えるのが「重要」であり,「限定」が「二次的」という位置づけについては筆者の立場と異なります。具体的に言えば,筆者は「限定」が「二次的」とは考えず,また,「多い」というのは「ばかり」が集合を形成するに当たっての前提条件であると考えております。

2.要旨欄と第2節の文言について

ご指摘を踏まえ,第2節末尾の「ばかりの意味についても考察する」の「も」は削除いたしました(第2稿2.3節最終文)。なお,要旨を全面的に修正した都合上,第1稿の「示唆・主張」はそれ自体を削除いたしました。

3.遊離数量詞を持ち出す意義について

筆者は“「ばかり」は主観的集合の内部に非該当例が存在しないことを表す”ということが遊離数量詞共起下の現象から明らかになると考えており,その点に遊離数量詞を持ち出す意義を見出しております。ご指摘を踏まえ,第2稿ではこの点が(少なくとも第1稿に比べて)明確になるように修正いたしました(第2稿2.3節(17)の直後)。

ところで,ご教示いただいた2つの例のうち,特に「『非該当例』の存在が会話相手に知られた場合、相手に反駁され得」るという例は,ご指摘の通り「『非該当例』が、いわば『非公式のもの』でしかないことを示すもの」であると考えます(同様の例は佐藤(2017: 3-4)でも指摘されていることを確認しております)。しかし,この例では“「非該当例」は「ばかり」によって設定される集合の内部に存在するのか外部に存在するのか”という点までは十分に捉えられないものと思われます。これに対し,筆者は遊離数量詞共起下の現象を観察することで“「非該当例」は「ばかり」によって設定される集合の外部に存在する(内部には存在しない)”ということが明らかになると考えております。

なお,「『厳密に』『厳密な話』などの語句が『~ばかり』にかかるだけで、『非該当例』は許容されにくくな」るというご指摘については検討の余地があると考えます。「厳密に」が介入すれば非該当例を許容しないということであれば,次の例文①②③はいずれも自然に成立することが予測されますが,「ばかり」と共起する③はやや不自然になるように思われます。

①    先週はうどんをよく食べてました。いや, 厳密にはうどん だけ食べてました。

②    先週はうどんをよく食べてました。いや, 厳密にはうどん しか食べませんでした。

③ ? 先週はうどんをよく食べてました。いや, 厳密にはうどん ばかり食べてました。

これは,「ばかり」が主観的集合を問題にする(客観的集合ではないことを含意する)のに対し,「厳密に」は客観的集合を問題にする(主観的集合の設定を許さない)ためであると考えます。

4.「現実世界の事態の数量」という表現について

ご指摘の通り,「「現実世界の事態の数量」との(不)一致」という表現,特に「現実世界」という表現は不適切でした。ご指摘いただきありがとうございました。第2稿では内容を修正した都合上,この表現自体を削除いたしました。

5.体験談では嘘と思われない程度の誇張や脚色がなされやすいこととの関わりについて

「体験談」では「嘘と思われない程度の誇張や脚色がなされやすい」ため,「個人的な体験として語る場合、非該当例が許容されやすい」という見方については,筆者も関連性理論で言われる「ルース・トーク」(loose talk)に関する記述(Sperber and Wilson 1995 )を参考に検討いたしました。しかし,その場合,「ばかり」が遊離数量詞と共起する際に非該当例が許容されないことを説明できないため,この見方は採りませんでした。また,「ばかり」は「体験」の中から非該当例を排除した集合を設定すると筆者は捉えており,これは少なくとも一般的な「ルース・トーク」とは異なるものと考えております。

※    Sperber, D. & D. Wilson (1995) Relevance. Communication and Cognition.(内田聖二・中逵俊明・宋南先・田中圭子訳『関連性理論―伝達と認知―第2版』,1999年,研究者出版)

6.遊離数量詞によって非該当例を含んだ数が表示できない理由について

筆者は,遊離数量詞が共起することで主観的な集合を形成する「事態」の数量が計量的に明示され,それによって集合の範囲が明確になると考えております。また,「事態」は「探索」と親和性があり,遊離数量詞が示す「事態」の数は「探索」の数と一致するのではないかと考えております。

以上のご説明で十分なご回答になっているかは確信が持てませんが,現時点での筆者の考えを述べさせていただきました。

7.遊離数量詞による事態の数の明示は非該当例の存在が許容されなくなる根本的な原因ではないというご指摘について

ご指摘いただきありがとうございます。確かに,第1稿では遊離数量詞による事態の数の明示が非該当例の存在が許容されなくなる根本的な原因であるかのように述べられております。しかし,これは筆者の述べ方の不備によるものであり,本来の意図はそうではありませんでした。

筆者は,遊離数量詞による事態の数の明示は,非該当例の存在が許容されなくなることの根本的な原因ではなく,“「ばかり」は(主観的)集合の内部に非該当例が無いことを表す”ということを示唆する現象を観察することのできる操作(の1つ)であると考えております。第2稿では述べ方を全面的に修正し,この点が明確になるようにいたしました。

8.「数量詞」の範囲について

ご指摘の通り,「朝からおかしな答案ばっかり、山ほど採点してこっちまでおかしくなる」の場合は非該当例(「まともな答案」)の存在が許容されやすい可能性があると思われます。また,先行研究の中には「数詞から成るもの」でない形式も「数量詞」の1つに数える論考があることも確認しております(宇都宮1995 など)。

しかし,「数詞から成るもの」でない形式は一般的な数量詞(「数詞から成るもの」)と異なる性質を有しております。例えば,前者は後者に比べて位置的な制約が強いという点が挙げられます。

①    答案を 山ほど採点する。[NCQ]                  cf.答案を 30 採点する。

② ? 山ほどの答案を採点する。[QノNC]       cf. 30 の答案を採点する。

③ * 答案 山ほどを採点する。[NQC]                  cf.答案 30 を採点する。

ご指摘いただいた前述の例は確かに興味深いものですが,今回はこのような相違点が認められることを考慮し,「数詞から成るもの」のみを「数量詞」と捉えることにいたしました。

※    宇都宮裕章(1995)「日本語数量詞体系の一考察」『日本語教育』87,pp.1-11.


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